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2014年10月

2014年10月29日 (水)

ポル・ポト政権悪夢の3年8ヶ月

 1975年4月17日、正月明けのプノンペン市内に兵士を乗せたトラックや装甲車が続々入ってきた。ポル・ポト率いるクメール・ルージュの軍隊である。(カンボジアのお正月は4月)

 クメール・ルージュは、農村主体の徹底した共産主義思想のもと、すでに73年頃までに農村の大半を掌握したが、ロン・ノル政権を倒して「民主カンボジア」の樹立を宣言した。
 当時プノンペンに住んでいた約150万人の市民は1週間で地方に強制移住させられ、プノンペンはゴーストタウンになった。

 クメール・ルージュは、集団農業を核とした原始共産制社会の実現をめざした。貨幣制度を廃止、都市住民を農村へ移住させ、強制労働に従事させた。政権にさからったり、その可能性のある人々を次々と粛清、その結果拷問や処刑、飢餓、病気などにより100万人~200万人が命を落としたとされる。
 地方に強制移住させられた都市住民は「新人民」と呼ばれ、農村にいた「旧人民」と区別されて過酷な強制労働に従事させられた。

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【電車に乗るクメール・ルージュの幹部たち(左端がポル・ポト)】

 ポル・ポト政権時、13歳だった私の友人は、家族とともにプノンペンからバンテアイミンチェイ県に強制移住させられ、毎日かんがい用水の工事に駆り出された。父や兄は餓死、本人も空腹に耐えかね、野ねずみを捕まえて食べようとしたところを兵士に見つかり、3日3晩、野ねずみを目の前に置かれて働かされた思い出を語ってくれた。

 こんな極端な政権が長く続くはずがない。フン・セン現首相やヘン・サムリン現国会議長らが反旗を翻してベトナムに応援を求め、1979年1月7日、ベトナム戦車部隊がプノンペンを制圧、3年8ヶ月に及ぶ恐怖政権が終わった。(1月7日は勝利の日として国民の祝日になっている)

 クメール・ルージュが後世に残した唯一の財産といえば、かんがい用水だろう。
 カンボジアの最盛期であるクメール王朝の時代、王は巨大なため池を作り、田んぼに水が行き渡るように工夫した。(西バライ・東バライ)ポル・ポトもこれを見習い、全国にため池やかんがい用水を建設、今も使われている。

 クメール・ルージュが崩壊して35年、当時を体験した人々は少なくなった。日本も戦後70年、戦争体験の語り部が少なくなり、いつかゼロになるだろう。
 日本の右傾化を思うと、次世代へ戦争体験を語り継ぐことの大切さを痛感する。

          2014年11月3日(月) 根岸恒次(法人理事長)

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2014年10月21日 (火)

国内イベントに参加することは大きな意義がある

 国際協力を標榜するNGO団体の活動は、国外活動(現地での支援活動)と国内活動(主として広報活動)に大別される。この二つの活動を両立できるかどうかで、NGO団体の真価が問われることになる。一般的傾向として海外の支援活動が重視されがちだが、国内活動をおろそかにするNGO団体は先細りの傾向にある。そんなNGO団体を沢山見てきた。

 更に国内活動を小別すると、イベントへの参加、会報の発行、講演会の開催、写真展の開催、会員相互の懇談会など、様々な活動がある。
 中でもイベントへの参加は、会員獲得の広報活動と、現地で作った製品の販売にはもってこいの場だ。なにしろ、大きな傘の下で多少の賃料を払うだけで活動できるのだから、こんな便利なことはない。

 本会では、毎年2つのイベントに定期参加している。
 最大イベントは、毎年10月、東京の日比谷公園で開催される「グローバルフェスタ」。
国際協力活動を行なう200団体以上が参加し、活動紹介や物品販売を行なう。模擬店を出展する団体も多い。

 本会は、2002年に初参加以後13年連続で参加している。お手伝いのボランティアさんも沢山来てくれ、会員相互の交流の場にもなっている。
 残念なのは、屋外イベントだけに天候に左右されること。今年も2日目は台風の直撃を受け、散々だった。

 もう一つのイベントは、地元練馬区が主催する「練馬まつり」。「グローバルフェスタ」と同じく毎年10月開催。こちらは2007年から参加しているが、国際協力団体は唯一本会のみ。区民の関心は今ひとつだが、物品販売で大きな成果をあげている。

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【毎年沢山の人でにぎわうグローバルフェスタ(上)と練馬まつり(下)】

 カンボジア製品を買ってくれた人には、会報などの資料を手渡しているので、帰宅後にゆっくりと読んでくれることを期待している。
 このほか、不定期ではあるが、横浜などで開催されるイベントに時々参加している。

 このようなイベント参加のメリットは、広報、物販に限らない。多くの皆さんより、国際協力に係わる「生の声」を聞くことのできる数少ない場である。特に、カンボジアという国を知ってもらう絶好の機会。「カンボジアって、まだ地雷があるのでしょう?私たちが行って危なくないかしら?」と、やや時代錯誤な質問が意外と多いのだ。

 実情を正しく理解して頂き、認識を改めて頂くのも、私たちNGO団体の大きな役目でもある。

          2014年10月27日(月) 根岸恒次(法人理事長)

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2014年10月16日 (木)

ポルポト政権前のカンボジア近・現代史を学ぶ

 日本の現代史は、太平洋戦争を一つの区切りとしている。マスコミなどが戦後初の・・・といういい方をするように、カンボジアではポルポト政権(1975年~79年)が現代史の区切りとされる。ここで、ポルポト政権前の近・現代史について、おさらいしておきたい。

 19世の後半、ヨーロッパ列強によるアジアの植民地化が進む中、フランスはベトナム・カンボジア・ラオスを相次いで併合、「仏領インドシナ」として支配した。

 フランスの支配下、カンボジアではプノンペンの街並みが整備され、フランス様式の建物が建てられるなど、それなりに恩恵は受けたが、所詮植民地経営に利するためのものであった。フランスが残してくれたのは建築とフランスパンの作り方だけだったと、知り合いのカンボジア人が皮肉を込めてよく話してくれたものだ。

 フランスによる長い植民地経営が終わったのは1940年のこと。第二次世界大戦のヨーロッパ戦線でフランスがドイツに占領された弱みに付け込み、日本軍が仏領インドシナを無血で占領した。しかしその日本軍も1945年に降伏、終戦を迎えた。意外にも、カンボジアに進駐した日本軍はおとなしかったそうだ。

 日本軍の撤退でインドシナ三国は再びフランスの支配下に戻ったが、独立を求める第一次インドシナ戦争が始まった。その後カンボジアは、シハヌーク前国王の外交努力により、1953年に完全独立を果たした。

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【中国と親しかったシハヌーク前国王はアメリカの反感を招いた。(写真=毛沢東中国共産党主席と握手するシハヌーク前国王)】

 しばし平和な時代をすごしたカンボジアだったが、1060年代後半になるとベトナム戦争が激化、カンボジアもそのあおりを受け、再び戦場と化した。南ベトナムが劣勢になると、その孤立化を恐れたアメリカは1970年、ロン・ノル将軍にクーデターを起こさせ、中国と親しかったシハヌーク前国王を追放した。

 シハヌーク前国王派は、急進的な共産主義を唱える「クメール・ルージュ」(ポルポト派)と手を組んで「カンボジア民族統一戦線」を結成、カンボジアは再び内戦状態に突入した。

 1973年、アメリカがインドシナ半島から全面撤退すると事態が急変した。ベトナムでは1975年に南北統一が実現、カンボジアでもロン・ノル将軍が亡命してポルポト率いる「クメール・ルージュ」がプノンペンを制圧、シハヌーク前国王も幽閉されて、3年8ヶ月に及ぶ独裁政権による民族大虐殺が始まることになった。

          2014年10月20日(月) 根岸恒次(法人理事長)

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2014年10月10日 (金)

シハヌーク前国王の三回忌に思う

 10月15日は、89歳で亡くなったシハヌーク前国王(以下、前国王)の三回忌である。2年前の10月15日に亡くなった。当然のように、命日は国民の祝日になった。

 カンボジアの現代史は、前国王抜きに語ることはできない。第二次世界大戦中、18歳で国王に即位。日本の敗戦により、カンボジアは再びフランスの統治下に。しかし、大戦後東南アジア諸国が次々と独立を果たす中、カンボジアもフランスからの独立を強く要求、前国王のねばり強い交渉の末、1953年にカンボジアは完全独立を果たし、カンボジア王国が誕生した。

 しかし、平和は長く続かなかった。1970年、前国王が出国不在中にロン・ノル将軍がクーデターを起こして失脚、北京での亡命生活を皮切りに、ポルポト政権下での幽閉、その後の内戦を経て1991年には紛争4派による最高国民評議会の議長に就任、内戦の終結に尽力した。

 その後誕生した新生カンボジア王国では国王に就任したものの、新憲法の規程により国王は国民の象徴となり、政治の表舞台から去ることになった。2004年には退位し、国王の座をご子息のシハモニに譲った。

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【カンボジア建国の父、シハヌーク前国王】

 前国王には「風見鶏」というあだ名があったように、戦後の冷戦構造下で大国の思惑の中、小国カンボジアを守り続けてきた。カンボジアにとって、世界大戦よりも冷戦時代の方が、難しい舵取りを迫られていたのだ。
 そのことをよく知るカンボジア国民は、前国王のことを「独立の父」、「建国の父」と称して尊敬してやまない。

 カンボジアは、長かった政治の混迷を克服し、民主国家として歩み始めた。若者は平和を謳歌し、40年前、ポルポト政権下ではゴーストタウンだったプノンペンは何事もなかったかのように繁栄を享受しているが、彼らはカンボジアを導いてくれた恩人を忘れることはないだろう。その証が、町のいたる所で目に付く前国王の大きな写真。やりすぎでは?とも思えるほどだ。

 前国王の業績を讃えるとともに、三回忌にあたり、改めてご冥福をお祈りするものである。

        2014年10月13日(月) 根岸恒次(法人理事長)

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2014年10月 1日 (水)

現地活動用に新しい車を購入

 本会がカンボジアで10年以上使用した車(トヨタ製のピックアップカー)を廃車し、とうとう新車を購入した。今回はニッサン製のピックアップカーである。
 カンボジアの交通機関は車が中心、電車・地下鉄・バスなどの公共乗り物がほとんどないため、車がないと何処にも行くことができない。

 本会が最初に車を買ったのは2001年頃と記憶している。中古の乗用車(カムリ)だったが、すぐに故障して使えなくなってしまった。
 これを見かねて武藤滋さん(静岡県沼津市、里親会員)が2003年、トヨタ製のピックアップカー(新車)を買ってくれた。以後11年間、現地における活動の足として活躍してくれた車だったが、最近は故障が多くて、修理代が会の大きな負担となっていた。

 そこで本会は昨年7月、会員の皆さんに車を購入するための募金を開始、今年の3月頃には購入資金を確保することができた。

 車を少しでも安く購入できるようにと、カンボジア政府に免税申請の手続きを行なった。これが意外に手間取ったが、この程、関係者らの努力により免税の許可がおり、ようやく新車が納入された。  
まだ仮のナンバーだが、2~3週間後には青色のナンバー(国際NGO機関などに限定)を頂くことが可能になった。免税もさることながら、青色ナンバーはカンボジア政府が認可した、数少ない国際NGOとしてのステイタスでもある。(旧車は白ナンバー)

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【11年間お世話になったトヨタハイラックス(左はカンボジア人ドライバーのリーさん)】

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【新しく買ったニッサン製ピックアップカー】

 新車にはこれから大いに頑張ってもらうが、旧車には心からご苦労様と言いたい。11年間、走行距離は多分50万キロメートルを超えていただろう。しかも、カンボジアの道路は未舗装の凸凹道ばっかり。よくぞ11年間も走り続けてくれた旧車に感謝、また、ほとんど無事故で運転してくれたカンボジア人ドライバーにも拍手を贈りたい。

 新車を購入するために寄付してくださった、沢山の会員さんにも感謝したい。概してカンボジアの物価は日本より安く、物によっては5分の1程度だが、車に関しては日本より高価である。ましてや新車ともなれば、この種の車を300万円以下で購入することは不可能。この程購入した新車も、免税措置を受けてこの位の値段である。

 私たちのカンボジア支援活動は、より沢山の方から協力をいただき、成り立っている。このことを忘れることなく、現地で有効な支援活動を行なっていきたい。


          2014年10月6日(月) 根岸恒次(法人理事長)

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